母親

学級という装置の問題点

125 0 personカッシャン edit2024.09.23

柳治男先生の「<学級>の歴史学」は強烈なインパクトがありました。平成元年からわが国初の本格的な「通信制課程の単位制高校」を立ち上げてきていつも感じていた「全日制課程の学年制高校(一般的な高等学校)」への違和感や不信感を見事に説明してくださったからです。                 
前校で不登校になった大半の生徒たちは「なぜ自分が行けなくなったのか」をうまく説明できませんでした。
それはそうでしょう。自分たちが立っている(立たされている)大地が間違っていることなど誰も気づくはずはないのですから。
あのアリストテレスでさえ、古代ギリシャの「奴隷制」を疑うことはありませんでした。市民それも男性が「人間」で、奴隷は人間以下、自分たちが立っている大地そのものです。大地を疑えば、立っていることすら不安になります。
奴隷制は社会の「大前提」だったのです。
これが「学級」にも言えるようです。もともとイギリスから生まれた「学級のようなもの」は産業革命で工場が商品を効率的に
生産するように子どもたちに「読み書き計算」を短期間に大量に教え込むシステムだったのです。
だから機械化された工場で「モノ」を大量に作るように、子どもたちを「教育(訓練)」するための手段、道具だったわけです。
学校を工場にたとえれば、大切なのは子どもたちの「人間性(思い、気持ち、心情)」ではなく、効率的に(短期間に)読み書き計算ができるようになる生徒を「生産すること」です。
だから早く上達する生徒は優秀で、習得に時間のかかる生徒は「劣等生のレッテル」を貼られます。これは工場生産の現場と全く同じで
評価基準は単一的で、「習得は遅いが、立ち止まって深く考えることができる」「自分のことより困っている生徒のことを思うことができる」「常識といわれていることを疑問に思ったりすることができる」等の「才能」は全て評価の対象にはなりません。
とにかく点数化できることだけが評価基準です。少し柳治男先生の文章をあげておきましょう。
  「<学級>の歴史学」118~120ページから引用
 ・・・「学級」は生徒にとっては、疎外に満ち満ちた世界である。
  第一に、児童・生徒であるということは、多面的・全体的存在である子どもが、ひたすら学習活動をすることのみに自己の行動を限定され、他の多くの活動を制限されることを意味する。   
  いろいろな技や知識を習得することが遊びや仕事と明確に区別されることなく、また多様な大人の中に紛れ込んで生活していたかつての「小さい大人」は、同年齢集団に分類され、外界から隔離され、学習だけにエネルギーを集中する生徒へと変容させられた。
 児童・生徒とは、バランスの取れた全体的存在としてではなく、一面的生活を余儀なくさせられた存在であることを意味する。                            前近代社会においては決して経験することのなかった異常な世界へと 子どもは組み込まれたのである。                
  第二に、彼らが閉じ込められることとなった世界とは、彼らの意思を無視して、機械的リズムで動く装置である。チェーン化した学校で、流れ作業のごとく動いていく組織のリズムに、生徒は自分を合わせねばならない。「学級」とは、この組織のリズムが強力に作用する場、すなわち規律空間である。         
 個人の好み、理解のスピード、成績のレベルはすべて無視されることによって、「学級」を通じた授業は進行する。       
 したがって「自己抑制」という規律が大きな負荷をかける一種の高圧釜として、「学級」は子どもに重圧を及ぼす。・・・        
  第三に学校という組織のリズムに従うことは、学校の権威的秩序に従うこと、具体的には教師の命令に服従することを意味する。・・・子どもは児童や生徒として行動しなければならず、独立した大人として、まして教師として振舞ってはならない。生徒は必ず教師に対する服従者として振舞わねばならない。
 このことに失敗すると、厳しい制裁が生徒を待っている。     
 「<学級>の歴史学」151~152ページから引用、
  (学級間の)競争は、競争のための競争として、自己目的化する。・・・「学級」は多くの活動体験を共有する生活共同体、そして他「学級」との対抗意識を共有する、一種の感情共同体へと変容していく。・・・学級制が、学習活動の促進のために作り上げられてきた一つの手段であることも忘れ去られてしまう他はない。「学級」の存在そのものが自己目的化していくことは避けられないこととなる。                   
わが国の学校の悪しき伝統として常に指摘される「学級王国」とはこのような環境のなかで形成されて習慣であった。       
 若い頃学級担任として「学級」の強権的管理者として「君臨」してきた自分を後悔するとともに、後年「学級のない」単位制高校の創設にかかわらせていただき、「不登校という拒否権」を発動して「学級」から避難してきた多くの生徒たちを受け入れることができたことは本当に幸せなことでした。           
入学前ずっと下を向いていた生徒たちが、単位制高校は学級や学年が無いという説明を聞き、徐々に顔をあげ、笑顔も見られるようになりました。これは「学級」という装置がいかに非人間的なもので彼らを苦しめていたかを物語っています。         
 どんなことでも「当たり前」に存在するシステム、仕組み、制度を根本から疑い、その「被害者」を責めるようなことがあってはならないと思います。                
むしろ不登校は自分を守るためのまともな反応です。こんな抑圧的な装置を当然のように押し付けてきた社会自体がおかしいのですから。
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